山田唄の暗部

ひたすら山田唄のモヤモヤを投げかけていく雑記

「天才」

 こんばんは。随分夏らしい気温になってきました。今日明日辺りはからっとした陽気だったのでまだ快適に過ごせていますが、コロナで換気の必要がある現在、本格的な夏にこのまま突入したらと思うと怖いですね。

 

 今回は前回に引き続いて、「才能」について考えたことをちょっと纏めてみます。

 

 才能、と言う物の定義ですが、私は「身体能力の高さ」、がまず原点にあると思っております。例えば人より耳がイイとか、記憶力に優れているとか、そういった能力の高さですね。この才能が努力に合致したときに、人は高い成績を収める、という事だと思います。

 

 この「合致したとき」というのが結構重要で、例えば先述の「耳がイイ」という才能に関しても、音階を聞き分ける能力が高い、音の出どころを聞き分ける能力が高い、単純に小さな音を大きく捉える事が出来る、など、多岐にわたります。これらを見極めて自分の能力を伸ばして行く事が、いわゆる「天才」への近道であると思うのですね。

 

 

 ここに、肩の筋肉の配列が非常にイイ少年がいたとします。彼は幼いころから野球に励み、才能のおかげで強肩を手にし、そのまま剛速球を投げる投手となりました。

 しかし、彼は手首が生まれつき固く、高校までは超高校級のエースとして活躍してきましたが、プロに入団後、コントロールと変化球の投げ分けに悩むようになります。結果として高校まではスター選手でしたが、プロでは剛速球だけでは通用せず、大きな活躍は出来ませんでした。

 この場合に於いて、彼が外野手として生きていれば、超ロングレンジでの返球が可能になりプロでもスターとなれたかもしれません。

 

 このように、才能とはそれを見出し伸ばす事とセットでなければ、なかなか威力を発揮し辛い事が言えると思います。

 

 私の場合で言うなら、恐らくは後天的に「集中力」が高い素材として育まれてきた。そのおかげで学生時代の授業に対する集中力や現在の絵に対する集中力など、多くの物に対する集中力が高く、結果「大体の事が人より早く習得できる」という才能となって結実した、というところでしょうかね。

 しかし、前回の「才能」のクダリでも述べたように、「集中力が高い」というだけでてっぺんに立てるほどの実力は育まれない。結果、例えば「空間認識能力が高い」といった才能を持つ人に対しては、絵の空間認識に関して大きく後れを取る状態なわけです。

 

 私はきっと、色んな事を程々にこなす多趣味な人間として育てば非常に高い素養を発揮し、「天才」と呼ばれるに至っていたのでしょう。それでも私は「絵」と「文章」という道を選んでしまった。

 まあ言ってみれば、人は誰でも天才に成れる能力を何か一つは有しているのだけれど、それを的確に伸ばしてきた人は一部であり、よって才能があるかないかが議論されるような世界に成っているのでしょう。

 

 才能は才能を見出すと言いますが、逆に言えば見出されない才能も幾らでもあるのです。なので、天才に成れるかどうかは結果として「運」であると言えるかもしれませんね。

 

 今回はこの辺りで。