山田唄の暗部

ひたすら山田唄のモヤモヤを投げかけていく雑記

「売り方」

 こんばんは。またちょっともやもやっと考え込んでしまい、抜け出せなくなったので、こちらで吐いてしまおうと思います。

 

 テレビで南海キャンディーズの暴露話的な番組をやっていて、それを流し見ていたんですが、その番組中、山ちゃんが、相方のしずちゃんがアイドル的な売れ方をするのを見て、不満や不安に駆られていた、と語っていました。

 私にはお笑いのなんたるかはさっぱりわかりませんが、しずちゃんのアイドル化を見て山ちゃんがどんな不満に駆られたかという点は共感できましたし、また逆にしずちゃんが成功しているのに自分の思いだけで不満を募らせていた山ちゃんが情けないという気持ちにもなりました。これも要するに山ちゃんを自分に重ね合わせて共感した結果の「情けなさ」なのですが。

 

 

 私は今月で三十三歳になります。それでいて職歴は高校時代のバイトとこの十年ばかりの事務所通い程度しかありません。二十代の頃は絵で仕事を取ろうと躍起になっていましたが、結局取り付けられた仕事はPBWの依頼が四件ほどと、あとは数百円の単価にしかならないコミッションばかりです。

 要するに自分は落伍者です。挑んで、失敗して、負けた。

 それでも絵に対する執着を捨てきれずに今なお毎日絵に励んで自分を納得させているだけです。

 

 それだけに、絵で成功している人を見ると羨ましくてしょうがなくなる。なぜ自分は彼らのようになれなかったのか、自分には何が足りなかったのか。そんな思いを日々無意味だと知りつつ煮詰めています。

 

 

 ネットが出来てからのイラストレーターとは、多くの点で人気商売になったなと感じています。知名度の高いイラストレーターに描いて貰ったほうが依頼側としても旨味があり、結果人気イラストレーターに高額依頼が集中し、下積み中であったり然程知名度がないイラストレーターに回ってくるのは、誰がやっても大して変わらないような仕事ばかり。

 仕方がない、そう言う風に回っている事自体はそれはそれとして受け止めるしかない。

 

 それでも、人気がある、という理由だけで、自分と同じかそれ以下程度の技術しかないイラストレーターがどんどん仕事を取って行くのを見ていると、我慢ならない気持ちになる。

 

 自分も山ちゃんが人気者のしずちゃんをねたんでいたのと同じように、人気のある彼らをねたんでいるのだなと思います。

 まあ、それはそれとして消化して、自分には自分の売り方があると自分を納得させてきたわけですが、偶にどうしても我慢できなくなるんですよね。

 何が言いたいのか解らなくなって来ました。

 

 

 自分がこうして悩んで悩んで、その末に自分を納得させてなんとかモチベーションを維持している、というのも、客観的に見てかなりみすぼらしいなと思うんです。頑張る事は基本的にカッコ悪い。それでも、自分の取り得は頑張る事しかないから、私はこれからも頑張るんでしょう。

 

 という所で締めておきます。

 今回はこの辺りで。

「論理」

 こんにちは。最近、ツイッターで「天才プログラマーのブログ」がトレンドに上がっていました。今回はそれを読んで感じたことと、そこから派生した二義的な気持ちの話。

 

 現物を読みたい方はツイッターで検索して頂ければいいかなと思うのですが、大体そのブログとは、自分はプログラマーであるが、論理的にプログラムを組んでいるのではなく極直感的なプログラミングをしている事に気づいた、そもそも人は直感的に物事を判断する事に優れており、その上澄みに理論を乗っけているだけに過ぎない、つまり、直感的に物事を理解したほうがより大きな能力を発揮できるはずだ、といったような文面でした。

 大体これに関しては肯定も否定も無く、ただ読み物として「なるほどな」と思ったのですが、そのブログにも、ブログを取り上げたツイートにもたくさんの肯定意見と否定意見がついており、またこの点が私が特にイラッと来た点なのですが、ほとんどの意見が論理的ではありませんでした。

 

 今回はこのブログの内容が正しい、正しく無いという視点では論じません。

 とりあえず私が論理的でない意見にイラッとした理由は、単純に根拠もないのにヒトの意見を肯定または否定しているそれらの論者に反発を覚えたからだ、と思っていました。

 

 しかし、そのまま幾日か過ごしてみた感じ、私はただ単に「論理的でない意見」というものに須らくイラッとするような思考状態である、と気づきました。

 

 

 論理的でない意見とは、論争の中心にあるようなものだけでなく、例えばツイッターで良く見られるような感情をそのままに叩きつけた啓発文であるとか、何の意味もないウケたいだけのツイートなども含みます。

 要するに、「ああこの人頭が悪いな」と思うと、私はイラッとするんだと気づいたんですね。

 

 それに気づくと同時に、さて自分は頭が良いのだろうか、とも思いました。少し前に聴いた、IQの差が一定以上ある人同士では会話が成り立たず、両者にとってストレスになる、という話を思い出したわけです。私は彼ら「頭の悪い発言をする」人達よりもIQが一定以上高く、だからこそその発言が真に理解出来ず苛々しているのだろうか? と。

 

 その時点ではまあ、答えは出ない訳です。専門機関で正しい測定法で測らなければ、正確なIQなど解りませんし、そもそもIQというもので「頭の良さ」を測る、という理屈にも私はぶっちゃけイラッとします。頭の良さにもさまざまな性質があると思っているし、一義的に数値化できるものではないと思っている。

 

 では、私が思う「頭の悪い意見」というものの本質はなんなのか?

 

 

 私がこちらでお世話になっている方のブログを拝見していても、自分はイラッとする時としない時があります。もっと言うなら、大体イラッとする記事を書く人は決まっているので、そうしたブログには読者にならないようにしている。

 で、読者になっているブログを見回すと、大体が論理的な口調で冷静に語る人ばかりである、という事が解りました。

 

 

 結局、私は論理的でない意見に、直感的に反発を覚えているだけに過ぎないのではないか、という結論に至りましたね。要は、自分は「無駄」を排除したいのかもしれません。感情のもつれとか、善悪とか、価値観の違いとか、とにかくそういうモノに煩わされているのが嫌でしょうがない。万人に響く言葉で万人に解りやすいように書かれたものしか肯定的に捉えられない。

 

 まあ、これが解った時に軽く自分に絶望したわけですが、その反面、自分が何を地雷と感じるか、という点も見えてきました。だったらそれに近づかないように過ごせばいいじゃないか、と思ったんですね。

 

 今回はそれだけのお話でございました。なんというか、表だってこういう思考の話をするとそれこそ肯定的に取られたり否定的に取られたりして自分が疲弊するだけなので、こちらに留めておこうと思います。

 今回はこの辺りで。

「幸せ」

 こんにちは。メインのブログのほうでは繰り返し語っていますが、またぼちぼち自分も停滞期に差し掛かって来ました。そんな時に、十七歳という若さで画家として活躍し、絵画教室や個展なども手掛けていらっしゃる方とツイッターで繋がり、つくづく自分とはなんだろうと考えあぐねております。

 今日はそんなモヤモヤに関する話題。

 

 「才能」が個々で様々である以上、それが昇華された「成功」の形も個人個人其々違うものとなるはずです。しかし現代ではネットのSNSという形で「成功」が強く可視化される状態となり、みんながその「成功」を目指して成功者と同じ努力をする。

 私も若い時はそうでした。

 

 二十代の頃、私は絵の仕事を目指して毎日十時間以上絵を描き続けていた訳ですが、その時は気付いていませんでした、自分が仕事で描きたくもない絵を描く事に根本的に苦痛を感じる性分である、という事に。

 現在は思い知っているのですが、私は「仕事」は仕事として割り切り、やりたい事とは別に置いておくのが性に合っている。一番好きな事を仕事にすると辛い、というアレですね、まああの言葉も人によってそれぞれな訳ですが、私には合致していたと言う事なのでしょう。

 

 

 人が幸せになるに当り、「自分が何に幸せを感じるか」を知っておくことは非常に重要だと考えています。そして、一番大切なのはその幸せを他人と比べない事である。

 

 繰り返してきたように、幸せの形は人それぞれなので、他人の幸せを妬み羨み、その後追いをするという行為は率直に言って時間の無駄です。人間には適性があり、またその適正からくる幸せの重みが其々違います。

 現代に於いて繰り返し語られるようになった、「結婚して子どもを作ってマイホームを買う事だけが幸せの形ではない」というのもその一端ですね。

 

 まあそんな訳で、私も自分の幸せとはなんだろうと昔から熟考してきたわけですが、どうしても他人が羨ましくなる。華々しい世界できらびやかな活躍をしている人が妬ましい、自分はどうしてそう成れなかったのかと思う。

 

 こうして思考の「檻」にハマってしまい、結局は自分の幸せの芽を摘んできたわけです。

 

 

 ぶっちゃけ、「幸せとは何か」という問いに対しての単純な解は、「自分が幸せと感じられる状況に居る事」であり、その限り「幸せ」とは「なんか心地よい」と感じる脳の状態と定義出来ます。科学的につまびらかにしてしまえば、幸せとは脳が快楽を感じる物質を出している状態と言うだけの、単なる錯覚であると言えると思います。

 結果として、自分を幸せにするのは「自分は幸せだ」と強く信じる心であり、不幸にするのは「自分は不幸だ」と強く信じる心です。

 結局、心の在り方の状態変化に過ぎないのですよね。

 

 まあそんなに簡単に割り切れないのが人なのですが、例えば周囲から見て明らかに不幸な生い立ちと環境に居ながら、幸せに見える人もいるでしょう。そう言う人は「自分を幸せに導く心の在り方」を実践しており、その人にとっては周りから押し付けられた価値観など二の次なのです。

 私もそういうあり方で居たいと思いますね。

 

 偶にどうしても嫉妬に襲われますけれど、都度こうしてちゃんと理屈で考えて線を引いて行きたいものです。

 

 今回はこの辺りで。

「天才」

 こんばんは。随分夏らしい気温になってきました。今日明日辺りはからっとした陽気だったのでまだ快適に過ごせていますが、コロナで換気の必要がある現在、本格的な夏にこのまま突入したらと思うと怖いですね。

 

 今回は前回に引き続いて、「才能」について考えたことをちょっと纏めてみます。

 

 才能、と言う物の定義ですが、私は「身体能力の高さ」、がまず原点にあると思っております。例えば人より耳がイイとか、記憶力に優れているとか、そういった能力の高さですね。この才能が努力に合致したときに、人は高い成績を収める、という事だと思います。

 

 この「合致したとき」というのが結構重要で、例えば先述の「耳がイイ」という才能に関しても、音階を聞き分ける能力が高い、音の出どころを聞き分ける能力が高い、単純に小さな音を大きく捉える事が出来る、など、多岐にわたります。これらを見極めて自分の能力を伸ばして行く事が、いわゆる「天才」への近道であると思うのですね。

 

 

 ここに、肩の筋肉の配列が非常にイイ少年がいたとします。彼は幼いころから野球に励み、才能のおかげで強肩を手にし、そのまま剛速球を投げる投手となりました。

 しかし、彼は手首が生まれつき固く、高校までは超高校級のエースとして活躍してきましたが、プロに入団後、コントロールと変化球の投げ分けに悩むようになります。結果として高校まではスター選手でしたが、プロでは剛速球だけでは通用せず、大きな活躍は出来ませんでした。

 この場合に於いて、彼が外野手として生きていれば、超ロングレンジでの返球が可能になりプロでもスターとなれたかもしれません。

 

 このように、才能とはそれを見出し伸ばす事とセットでなければ、なかなか威力を発揮し辛い事が言えると思います。

 

 私の場合で言うなら、恐らくは後天的に「集中力」が高い素材として育まれてきた。そのおかげで学生時代の授業に対する集中力や現在の絵に対する集中力など、多くの物に対する集中力が高く、結果「大体の事が人より早く習得できる」という才能となって結実した、というところでしょうかね。

 しかし、前回の「才能」のクダリでも述べたように、「集中力が高い」というだけでてっぺんに立てるほどの実力は育まれない。結果、例えば「空間認識能力が高い」といった才能を持つ人に対しては、絵の空間認識に関して大きく後れを取る状態なわけです。

 

 私はきっと、色んな事を程々にこなす多趣味な人間として育てば非常に高い素養を発揮し、「天才」と呼ばれるに至っていたのでしょう。それでも私は「絵」と「文章」という道を選んでしまった。

 まあ言ってみれば、人は誰でも天才に成れる能力を何か一つは有しているのだけれど、それを的確に伸ばしてきた人は一部であり、よって才能があるかないかが議論されるような世界に成っているのでしょう。

 

 才能は才能を見出すと言いますが、逆に言えば見出されない才能も幾らでもあるのです。なので、天才に成れるかどうかは結果として「運」であると言えるかもしれませんね。

 

 今回はこの辺りで。

「才能」

 こんにちは。最近、仕事がテレワークとなり、一日のリズムが変わった事で生活リズムが崩れてしまっており、今日も深夜に目が覚めて眠れなくなりました。そのまま起きているのですが、やはりというか普段と比べて作業能率が非常に落ちますね。

 

 さて、今回もこの所もやもやっと考えていたことを吐き出そうかと思います。「才能」について。

 

 どんな界隈でもそうかと思うのですが、絵の世界でも昔から「絵は才能か、努力か」といったような議論が尽くされてきました。こういう時私が思うのは、なぜ二極あるうちの一方しか信じずに、両方が介在している可能性を考えないのかという事なのですが…。

 まあそんな訳で、私としては絵は勿論努力しなければ上手くはならないけれど、才能の点でスタートラインや成長速度に差がある、という考え方をしています。

 

 で、まあ自分が才能あふれるタイプかと言えば、やはりそうとは言えない。昔から割と手先が器用で要領もよく、理解度も高い人間でした。そういう所から何をやってもそこそこの成績を納められるのですが、てっぺんに届くかといえばそうでは無い。

 言うなれば才能と言うものにも種類と分類が存在し、私の才能は学んだことが人よりも身につくという程度の、プライオリティで言えば極低い物でしかないのですよね。

 

 なので、絵を始めた当初から自分は「才能がない」「成長が遅い」「向いてない」と言われ続けてきました。そりゃ理解しています、例えば絵に特化した才能と言う物も幾らでも存在し、それらを持って生まれた人が絵に活路を見出せば恐ろしい速度で伸びて行くのは想像に難くない。

 例えるなら、兎は走るのが早いけれども、水の中では魚には決して敵わないといった所です。あれらは「泳ぐために」進化した素材であり、泳ぐことに特化した才能を持っている。そういうプライオリティの高い才能に勝つには、基本誰よりも努力するしかありません。

 

 で、私も十年間努力し続けてようやくこのラインです。人よりもよほど頑張ってきたと思っている。それでもプライオリティの高い才能を持ち、自分と同じくらい努力して来ている人もそりゃ幾らでもいる。そう言う人にはどうしても勝てない。

 

 

 なんだか最近、才能が低いが故の限界を感じるんですよね。優劣がはっきりつく世の中において、自分が今まで才能の無さを自覚せぬまま頑張ってこられたのは僥倖と言うほかない。しかし、いい加減それが露呈してきた。

 更にあと十年頑張れば、とも思うのですが、その頃には自分はもう四十代です。途方もないな、と。

 

 最終的に愚痴でした。

 今回はこの辺りで。

「自己責任」について

 こんにちは。

 

 今日は全国的に雨と言う事で、昨日まで晴れていたせいか気圧の変化が大きく気鬱が酷いです。こういう時は取り留めもない事を延々考えて鬱に入ってしまい良く無いですね。

 とりあえず何か吐き出したい気持ちに駆られたので、この所モヤモヤっと考えている事を一つ。

 

 

 「ブルーピリオド」という美術を題材にした漫画があるのですが、その主人公矢口八虎が、現役合格を果たした藝大で教授にボロクソに言われて凹む、というシーンが新刊で出てくるのですね。これがまあしんどくてですね。

 

 教授、とか、政治家、とか、まああらゆる権力者に言える事なのですが、一度権力を持った人間は非常に傲慢に成り易くなるなと思うんですよね。

 人を導く立場になるわけですからむしろ謙虚になるべきですし、自分の一言がどれだけの影響力を持つかよく配慮したうえで発言也行動也すべきだと思う。そこら辺を全く意識しないで、権力を好き勝手行使して「あとは受け手の自己責任ですよ」みたいな人達がやけに多いなと。

 

 「自己責任」という言葉は物凄く無責任なあり方だと思います。極極端に言えば、嘘や方便を幾ら並べても「それを信じる人の自己責任だ」と言ってしまえば虚言の責任も逃れられるわけですからね。嘘をつく側が悪いのではなく騙される方が悪いのだみたいな暴論だと思います。

 

 ネット社会に突入し、誰もが気軽に世界中に向けてメッセージを発信する事が出来るようになりました。

 その結果、虚実入り混じった発言を極めて軽い気持ちで発信し、世の中を混乱させておきながら「それは自己責任」みたいな逃れ方をしてる人達が幾らでもいる。

 私としては物凄く腹が立つんですね。

 

 まあそんな事を「ブルーピリオド」を読んでつらつらっと考えたりしたのでした。

 私の所感で言うなら、騙される方に罪はなく、嘘をついた人間が100%悪いです。そこら辺、責任転嫁している人こそ「自己責任」がなっていないのではないかと思うんですね。

 

 今回はこの辺りで。